自問清掃

昨日、N県のM町の中学校にお師匠様の講演の同行をさせていただいた。お師匠様のお話を聞くことはもちろん、一番興味があったのは「自問清掃」である。
以前、テレビで取り上げられていたのを見た時に「これは“くげぇ〜”なぁ…」と思っていた。
実際に、見に行くチャンスがあるということで講義を休んで見に行った。


13:30になると子どもたちは全員が手ぬぐいでほおっかむりをして、自問清掃が始まる。
待機していた教室から子どもたちの掃除をしているところを見に行った。すると、全員が誰一人として話すことなく、黙々と掃除を行っていた。

人の気配があり、みんなが動いているのに誰一人としてしゃべっていないから、すごく張り詰めた空気だけが流れる。


子どもたちは本当にテキパキと動いていた。驚くべきはその速さだけではない。ぞうきんは全員が両膝をしっかりついて四つん這いの状態で四角拭き(私だけの造語かもしれないが…)をしていたのだ。
教室でも、廊下でも、しかも、先生も一緒になって行っていた。


丁寧さに驚いたと思った矢先、玄関掃除の子どもたちに驚かされた。
玄関掃除の子どもたちは、一人一人の靴箱の砂をミニほうき&ちりとりで取るだけではなく、全員の靴の裏についている砂もしっかりと落としてから靴箱に戻すのだ。靴に付いていた砂は最後に一つに集められる。
この細やかな動きにもびっくりした。


極めつけは、ほうきの生徒が一箇所にゴミを集めていてそろそろ集め終わるかどうかというタイミングで、他の生徒がちりとりを持ってきて、そのちりとりにほうきの生徒がゴミを掃き入れる。
無言の状態なのに、その連携たるや見事であった。それだけ、互いに目配り気配りの心が育っているということだろう。


掃除時間が終わり、ほおっかむりを取った瞬間に生徒たちは一様に賑やかに話し出す。まるでほおっかむりが“スイッチ”になっているようであった。


お師匠様、瑞之介くんが掃除後中1の子どもたちにインタビューを行う。


すると、子どもたちは「小学校の頃は自問清掃はやっていなかった。」口を揃えて話す。その代わりに「無言清掃」というものを行っていたらしい。
しかし、その生徒は「無言清掃はやらされている感じがしたけど、自問清掃は自分からやっている。」「本当はしゃべりたいが、みんながしゃべっていないしがまんしている。」と答えてくれた。
自問清掃の目的の一つに「がまんする心」を育てることが挙げられる。
この生徒はまさに、自分自身でしっかりと「がまんすす心」を身につけていると言える。


4月に入ってきたのに、わずか2か月足らずでここまで育つのだから、自問清掃の持つ教育力の高さを感じずにはいられなかった。
M中学校では、4月に全校生徒で自問集会なるものを開き、上級生が自問清掃を新1年に教えるのだそうだ。


一緒に行ったE口さんは「中学生は、伝統を誇りに感じるみたいで、伝統って言葉が入るとこちら側が何も言わなくても自分たちで動くんだよね。」と話してくれた。


自問清掃はM中にとっての伝統であり、その誇りある伝統を後輩に伝えていくことで、上級生としての自覚を育むことができる。
また、彼らは日々の習慣として、ごくごく当たり前に行っていることを私達院生のように県外からわざわざ見に来るということが子どもたちにさらなる自信をつけることであろう。
とにもかくにも、中学生の持つすさまじい力を目の当たりにしたとても刺激的な清掃参観でした。


ここからは、ちょっと自分なりに考えたネタを…
自問清掃はそれが持つ教育力は非常にすさまじいものがある。しかし、それが根付くのには非常に長い時間がかかるであろう。しかも、これを学校文化にするには全校が一致団結して一気に変えないと実現は難しいのではないだろうか…。


そこで、hata-sさんが提案してくれたファシリテーションのアクティビティにもある「静かを作る」を「静かを作ったまま、掃除を終わらせる」ところまでをアクティビティにしてみるというのはどうだろうか。


15分って遊んでいたり、掃除中にふざけているとあっという間に終わるような時間に感じられるが自問清掃はその15分がとても長く感じ、早く終われば周囲でまだやっていないところや普段やっていないところを自分たちで見つけて行うというように、時間が有効に使える。しかも、静かを作ったまま、掃除が終わらせられれば、達成感や充実感を味わうこともできる。
どうだろうか…?


この自問清掃は全てを追試するには難しさや越えなければいけないハードルがたくさんあるが、この教育力は見逃せないし、見逃したくないなぁ…と思った1日でした。