対話の難しさ

お師匠様が先週ゼミでお話しして下さった言葉。


「教師の力量以上に子どもたちが高まることはない。」
「子どもたちに活動をさせたければ、自分たちがそれを体現できなければいけない。」


これはここ最近ゼミで話題になっている「ダイアログ(対話)による話し合い」についてのご指導だ。


今日、明日の支援の準備をしていたらY小学習班でちょっとしたストーミング(?)が起こった。


たまたま、学習班が全員揃っていたので「どうすれば、みんなで仕事が分担できるか。」について話し合った。


自分としては「対話」…かどうかは判断できないが、どうすれば一人に過度な負担がいくことなく、それでいて全員の思いが尊重できる解決策になるのかを出し合おうと考えながら話していた。


始めは「大丈夫です。」と「みんなでやろうよ。」の言葉がむなしくすれ違う。


少しずつ感情的になっている自分に気付き、少しニュアンスを変えて「どの仕事なら、分けてもらえる?」と聞いてみたり、「3つの仕事の中で、一番優先順位が高くないのはどれ?」と聞いてみたりしていたら、「自分が与えられた仕事はきちんと全うしたい」という本当の思いを聞くことができたので、この中で一番優先順位の高くない算数カルテを3人で分担することで一応の折り合いがついた。


これが対話かどうか分からないが、始めの言葉だけがすれ違ったものに比べると3人の中の最適解が出た気がした。


話をしながら思ったのは、感情が対話へのかなりの障壁になることであった。


経験値の差こそあれ、それぞれが自分の思いを持っている。


それを尊重していくと、特に年功序列の文化色が強い日本では年下の人が「自分のせいで…」とか「自分がきちんとやっていないから…」といった本音を包み隠した言葉がたくさん出てくるような気がするし、自分でも使っている。



そんなお互いの立場や利害関係など多くの差を乗り越えて、お互いの最適解を見つける「対話」するには、自分はまだまだ修行が足りないと思った。


それでも、最後まで話し合いを投げずに本音を話してくれたことは本当に嬉しかったし、ありがたかった。


これで少しは仕事に対する負担感が軽減してくれれば嬉しい限りである。
帰り際に「正直、すごく助かりました。」という言葉に救われた。
本当に感謝。


一応、学習班を仕切る立場をやらせてもらいながらそのことに今の今まで気づけなかった自分の愚かさを反省しつつ、対話の難しさも同時に感じたひとときであった。


少しすっきりしたので、明日の授業準備を再開しま〜す。