「相手意識」の重要性

先日、お師匠様が「実践の前提」というスライドで「相手意識」についてお話しされた。
以下、N県特活研究会でのお師匠様のお話より抜粋
「当たり前のこと」を当たり前として教えているか。
・感謝の気持ちを伝える
・教科書は無償ではない
・給食は調理員さんだけが作っているのではない
・配膳の位置が決まっている意味
・掃除をしながら考えること
・なぜ姿勢を良くするのか。
・なぜ、先生にノートを向けて出すのか。
・「どうぞ」「ありがとう」の深層

見えないことを見えるようにすることが人生のレベルを上げる。

という内容のお話であった。この世の中のすべての「当たり前」には、その先に必ず「相手」がいる。その相手のことを考えた行動ができるかどうかで、その人の相手意識のレベルは違ってくる。

今日の授業では、子どもたちの相手意識をそれぞれ見ていった。見取り方は簡単。子どもたちは前時でまとめた各班それぞれ、主題を思い出し、同時進行で他の班の主題も書き込むようにした。はじめからランダムトークは認めていたので、始めてすぐにどんどんおしゃべりをしながら、埋めていける早さは認めてもよい。だが、問題はその後だ。プリントが終わるとどんどん席に着いていき、机間巡視している私が「全員がプリントを埋めるためにできることは何かある?」と聞くと、「特にない。」「ぼ〜っとしてる〜。」という子が続発しているのだ。周囲には、どのようにしたらいいか分からず困っている子たちがいるのに、そういう子に全く手を貸そうとせず、自分たちが終わればそれでよいという考えのたくさんいた。ここにこのクラスの相手意識のレベルが出ている。
お師匠様の、「自治への道筋」というスライドに実践の前提にあるもの…それは「相手意識」であるという話を思い出す。

自治

協力体験

コミュニケーションの質

コミュニケーションの量

相手意識
         N県特活研究会スライドより

どんなにすばらしい実践をしていても、その前提の「相手意識」が育っていなければ意味がない。私が研究の対象として行う「ペア学習」も「相手意識」の上になければ、ただの学習で終わってしまう。これを意識させたいのだが、一朝一夕には育っていかない。何事も「継続指導」が必要だ。せっかく、縁あって関わってくれている子どもたちだけに、本当に何か一つでもいいから、残していきたい。そんな、浅はかな希望を持ちながら日々授業をやらせていただいてはいるが、やはり、高学年では苦戦してしまった。
自分の力量不足を痛感する…。なかなか苦しい思いがいつも自分に足かせになり、苦しむがその中でも何か一つこの実習から学びを得て帰りたいと思う。